音小屋・音楽ジャーナリストコース(小野島講座)

音小屋・音楽ジャーナリストコース(講師・小野島大)の受講生の作品を掲載していきます

RADWIMPS『×と◯と罪と』

音小屋第6期音楽ジャーナリストコース 最終課題「生涯のベスト・アルバムのライナー・ノートを書く」

 

RADWIMPS『×と◯と罪と』

文・小島沙耶

 

 自分の大好きなバンドの新譜を聴く時、あなたはどんな気持ちで聴くだろうか。楽しみ、期待、それとも緊張?いろんな感情があると思う。RADWIMPSの新しい作品を聴く時は、私はいつも怖くて、不安で仕方なくなる。この作品を聴いても、私は彼らの音楽を好きでいられるだろうか、ついて行けるだろうかって。もちろん、その心配はいつだって杞憂に終わってきたから、私は自分の「人生の一枚」に彼らの最新アルバム『×と◯と罪と』を挙げる訳だけど。

 

 RADWIMPSは、野田洋次郎(Vo./Gt.)、桑原彰(Gt.)、武田祐介(Ba.)、山口智史(Dr.)による4ピースバンド。私が彼らと出会ったのは、4thアルバム『おかずのごはん』が発売されて半年くらい経った頃だ。今も昔も、ラッドはずっと「愛」を歌い続けてきているバンドだけど、当時の彼らが歌う「愛」は往々にして男女間の「恋愛」とイコールだった。たくさんの音と言葉を詰め込み、愛するたった一人のためだけの音楽を奏で、時にはその人のためだけにアルバム1枚を丸ごと費やすことさえ厭わない。野田の目には「君と僕」だけの世界しか映っていないように思え、初恋も迎えていなかった中学生の私には、それが物凄い衝撃だった。野田が見ているのはどんな世界なんだろうって、歌詞や音の意味をひたすら考えた。それは私にとって、それまで経験したことのない音楽の聴き方だった。

 

 5thアルバム『アルトコロニーの定理』以降は、彼らの楽曲はそんな「君と僕」だけの世界を抜け出し、より広い世界を俯瞰するようになる。前作『絶体絶命』では、さらに開けた世界に向けて音をかき鳴らした。ラッドのアルバムはいつだって、私を予想外の方向に連れて行ってくれる。それがどんな方向だか、聴くまで分かる筈がない。だから私は、彼らのアルバムを聴くのが怖いのだ。彼らは私の音楽の聴き方を変えてくれたバンドだけど、その新しい音を受け入れ、ついて行ける自信がないから。楽しみや期待は度を超えた瞬間、恐れや不安に変わる。

 

 前作で大きな世界に踏み出したラッドが、そのベクトルのまま再び「愛」に重心を置いたのが今作『×と◯と罪と』である。メンバー4人全員がプロツールスを導入し、サウンド的にも新たな境地に踏み込んだ彼らの最新作は、聴いている人全てに幸せになってほしいというラッドの祈りが込められた超大作だ。

 

 今までのラッドはアルバムを発売するとツアーを回り、それが終わると製作に専念することが多かった。しかし、『絶体絶命』の発売から約2年半、彼らは精力的に我々の目に見える形での活動を行ってきた。アルバム発売直後に起こった東日本大震災被災地を支援するためのWebサイト「糸色(いとしき)」、野田のソロ・プロジェクトであるillion(イリオン)に加え、昨年は横浜で2日間に渡って行われた「春ウララレミドソ」や宮城県での野外ライブ「青とメメメ」といった大規模なライブも開催。多くの活動を通して彼らが見てきた景色や出会ってきた人々の表情が、このアルバムの原点になったのだと思う。その証に、野田はこの2年半のライブで何度か、「幸せになろう」という言葉を口にした。以前だったら「愛してる」が合言葉だったのに。ラッドの目に映っているのは、最早たった一人の「君」だけではない。大きな世界の、その中にいる一人ひとりの「君」と向き合い、その幸せを祈るのが今のラッドなのだ。

 

 そんな彼らの変化を見てきたからこそ、私はこのアルバムを聴くのが怖くて仕方なかった。今のラッドが奏でる音楽を、自分は受け止めきれるんだろうかって。ドキドキしながらプレイヤーの再生ボタンを押した。

 

 アルバムの1曲目、“いえない”。野田は軽く息を吸い込み、澄んだ声で〈言えない 言えないよ/今君が死んでしまっても 構わないと思っていることを〉と歌い始める。予想に反して、シンプルで、柔らかい曲。今までの彼らは、「君が好き」というただ一言を伝えるために言葉を重ね、緻密に織り上げた曲を用いてきた。でも、今のラッドが胸いっぱいの愛を伝えるために選んだのは、〈言えない〉というただ一言と、穏やかなバンドサウンドに秘めた殺意。君との愛を永遠のものにするためには君に死んでもらうしかない、というあまりにも身勝手で自己中心的な愛をそっと歌う。野田の声があまりにも優しいから、少しだけ背筋が寒くなる。この歌の主人公はおそらく、その感情が殺意であるということにすら気付いていない。純粋な愛は時に、それだけで人を苦しめるのだ。

 

 そのまま、2曲目“実況中継” に入る。“おしゃかしゃま”や“DADA”といった、まくし立てるように歌う曲の系譜を受け継いでいるのがこの曲だ。そういう意味では、分かりやすく「前作までのラッド」をパワーアップさせた曲。〈アジアの島国日本〉で行われる人生ゲームを、神様と仏様の2人で中継する様子を描く。エキゾチックなメロディに纏わりつく音と、神や仏の言葉とは思えないような世俗的な詞が次から次へと押し寄せる。ラッドの詞では、神も仏も人間と変わらない。人間の必死な祈りそっちのけで自らの力を示威しあう神仏の姿は、世界に対する強烈なアンチテーゼであり、アルバムタイトルの「×」の部分に当たるんじゃないだろうか。

 

 でも、待てよ。ここで「×」が出てきたということは、きっとこの後に「◯」と「罪」も出てくる筈だ。そんなことを考えているうちに、初めに感じた怖さは忘れて、新しいラッドの世界に引きこまれてしまう。そういえば、前作も、前々作もそうだった。不安に思うのはいつも、再生ボタンを押すその瞬間まで。ついて行けるかなんて疑問を持ったことすら忘れて、いつの間にか私は4人の鳴らす音に包まれている。

 

 「◯」は意外とすぐに見つかる。3曲目“アイアンバイブル”をはじめ、このアルバムには、今までのラッドには無かった、世界に語りかけるような曲が多く見られる。喜びも痛みも苦しみも全てひっくるめた世界を、それでも〈次の世を生きる全ての人へ/我らの美談も 悲惨なボロも いざ教えよう〉と、分かりやすく明るいサウンドに乗せて軽やかに歌う。『アルトコロニーの定理』の頃から打ち込みに取り組んでいた彼らだが、今作ではこの他にも“パーフェクトベイビー”など多くの曲に効果的に用いられている。クレジットを見ても、野田のパートは今回「Vo., Gtr., Piano, Programming」となっている程だ。バンドという枠に囚われることなく様々な楽器を取り入れることで、ラッドはより広がった世界を表現している。そして、その中に◯を探すかのように明るい音を奏でる。

 

 ゆったりとしたリズムに乗せて青春と友情を歌う“リユニオン”、力強い言葉と音で人生を〈だるまさん転んだの逆再生〉に例える“DARMA GRAND PRIX”と続いて、『×と◯と罪と』は前半最大の佳境を迎える。シングルにも収録され、ファンの間でも物議を醸した問題作、“五月の蝿”だ。

 

 「愛」を表す言い回しは古今東西たくさんある。しかし、こんなに激しい表現はそうそう見られない。“五月の蝿”で歌われるのは、一見、愛とは真逆の感情の爆発だ。〈君〉に対する狂おしい憎しみを5分間にわたって吐露し続ける。ギター、ベース、ドラム、全ての音が、泣き叫ぶように鳴る。だが、過激なまでの想いを吐き出した後、この歌の主人公は〈君は何も悪くないから〉と〈君〉をそっと抱きしめるのだ。〈許さない〉と言っていいのは、こんなに〈君〉を愛した自分だけ。誰かの攻撃から〈君〉を守るのは、常に〈僕〉でなければならない。愛と憎しみは、常に隣り合わせなのである。

 

 呆然としたままの耳にそっと入ってくるのは、“最後の晩餐”。鼓動のリズムのような、温かいドラム。それからインストゥルメンタルの“夕霧”が謎めいた空間を作り出し、途方にくれた聴き手をそっと抱き寄せる。

 アルバムの後半には、優しい曲が並ぶ。筆頭は、2011年のツアー「絶体延命」の際に野田がピアノの弾き語りで披露していた“ブレス”。曲によって色を変える野田の声が、この曲では特に優しく響く。大切な物に恐恐と触れるような、繊細で温かい音。曲の後半は、そこにバンドアレンジによる力強さが加わる。「君と僕」だけではない、大きな世界の中で、それでも〈君〉を愛し続けるという、儚いけれど強い決意表明がこの曲なんだと思う。

 

 もう一曲、とても優しい愛の歌が14曲目の“ラストバージン”。“五月の蝿”と両A面で10月にシングルとして発売されたこの2曲は、初期のラッドを彷彿とさせる。どちらも、たった一人の〈君〉しか見えていない、「君と僕」以外は存在しないし必要ない世界の歌。恋ではなくて、愛を歌ったラブソング。しかし前述のとおり、今作で歌われる「愛」はそれだけではない。たった一人を愛することもまた、あくまで様々な愛の形の一つとして歌われているのだ。穏やかな曲に時折、桑原のギターと野田のピアノが彩りを添える。まるで、曲自体が二人の〈当たり前の日々〉を表すように。ゆったりとした当たり前の中にこそ幸せは隠れており、それを照らすのは常に〈君〉だ。ラッドが奏でる「愛」は、静かに流れ続ける。

 

 言葉にできない想いを歌う“いえない”で始まったアルバムの最後の曲は、〈言葉の針を 抜いてください〉と祈る“針と棘”。掠れた声で歌い始めるが、曲の最後には、壮大なサウンドと野田の確かな声が聴き手の心に刺さった棘をそっと抜き去る。言葉が刺す〈針〉は、いわば「罪」だろうか。ラッドのアルバムの最後の曲は毎回様々な祈りが込められているが、それは今作でも同じだ。童謡を思わせる優しいメロディに〈どうか幸せでありますように〉と祈りを込め、彼らは今日もこれからも歌い続ける。その決意を表すような、それでいて柔らかい終曲で聴き手の心をそっと照らし、大作『×と○と罪と』は終わっていく。

 

 ラッドが歌う世界は、決して素晴らしくなんかないこの世の中そのものだ。〈不景気、為替相場大荒れ模様〉(“最後の晩餐”)とか、〈「お前なんかいてもいなくても」がお得意の 意地悪いこの世界〉(“会心の一撃”)とか。この世界を生きていくのは楽しいことばかりではない。そんなことは分かっているけれど、それでもラッドは何一つとして諦めていない。「愛」で世界を照らして、幸せになろうって歌うのだ。だから、私も信じてみようって思える。嫌なことばっかりで、もう全部やめてしまいたくなっても、それでも幸せになりたいって願いながら、彼らの音楽に希望を託せる。こんな音楽に出会えた、それだけできっと私は幸せだ。

 

 野外ライブ「青とメメメ」で、野田は「きっと死ぬまでとんでもないことがまだまだあると思うけど、思いっきり幸せな世界にすることを諦めないで生きていきましょう」と口にした。「君と僕」だけの小さな世界ではなくて、もっと大きな世界を幸せにしていくことを決めたラッドの、大きな物語の始まりの一幕。きっとそれが『×と○と罪と』というアルバムだと思う。「思いっきり幸せな世界」を作るために、それまでこの世界を愛していられるように。みんながそれぞれ罪を背負い、罰を受けながら、それでも何もかも肯定して○を付けられるように。世界中が幸せになれるその日まで、ラッドは愛を歌い続ける。

 

小島沙耶