音小屋・音楽ジャーナリストコース(小野島講座)

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NUMBER GIRL『OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST & B-SIDES〜』

音小屋第6期音楽ジャーナリストコース 最終課題「生涯のベスト・アルバムのライナー・ノートを書く」

 

NUMBER GIRL『OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST & B-SIDES〜』

文・梶原綾乃

 

 人間だけではなく、ロックバンドとの出会いも一期一会だ。デビュー直前に知ることができるバンドもいれば、知ったころには既に解散してしまっているバンドもいる。しかしリアルタイム/非リアルタイムかどうかはさほど関係なく、時にはその音楽性から思想までを追いかけるほど熱中してしまうなど、いずれもリスナーの音楽体験のひとつとして蓄積されていく。私にとってナンバーガールとの出会いは、リアルタイムでもあり非リアルタイムでもあった。だからこそ、このバンドほどリアルタイムで出会えなかったことを悔やんだバンドはいない。1995年のデビューから2002年の解散までの9年間、くるりスーパーカーらと共に90年代の音楽シーンを築きあげた重要バンド・ナンバーガールが2005年、ベストアルバムの発売を機にもう一度、リスナーの注目を受ける機会があったという話をしよう。

 

 思えばASIAN KUNG-FUGENERATIONがパーソナリティを務めるラジオで、本作『OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST & B-SIDES〜』が紹介されていたのが私とナンバーガールとの出会いであった。アジカンのアルバム『君繋ファイブエム』に収録されている「N.G.S」という曲の名が「ナンバー・ガール・シンドローム」の略称だということは有名な話だし、彼らが敬愛するバンドのひとつであることは間違いない。期待が高まっていたが、ゴッチが紹介したナンバー「鉄風鋭くなって」には、ちょっと引いてしまった。いくら音量を上げてもボーカルはちゃんと聴こえないし、何を言っているのかわからない。楽曲が盛り上がっているわけではないのに、不自然なシャウトを繰り返すボーカルにビビってしまったのだ。ポルノグラフィティ小室哲哉など、メインストリームのJ-POPを好んでいた私にとっては新たな刺激だった。ラジオから始まり、レコード店の店頭でも気づいたら視聴していた。聴けば聴くほどなんだか気になってしまって、思い切って購入していた自分がいた。

 

 ファンの間でも人気が高い「鉄風鋭くなって」はもちろん、「TATTOOあり」など他の曲にもやっぱり引いてしまったのだが、買ってしまったCDだから聴かなければもったいない、そんな気持ちもあった。しかし聴きこむうちにナンバーガールの好きな曲はどんどん増え、気づいたら彼らを軸として、いろいろなバンドを知っていた。ELLEGARDEN銀杏BOYZ100sなどなど…リアルタイムでシーンを追いかけていくとともに、ここで初めて、聴けば聴くほどハマるバンドがあるということを知り、ルーツを探求することも知ることができた。

 

 そもそもナンバーガールは1995年、福岡にて結成された4人組ロックバンドだ。もともと宅録をしていた向井秀徳(vo,gt)が当時アルバイトをしていたライヴハウス、福岡ビブレホールにて同アルバイトである中尾憲太郎(ba)をバンドに誘ったことがはじまりである。中尾は照明を担当していたバンドコンテストにて、出演者の田淵ひさ子(gt)を誘う。田淵はコズミックチェリーというバンドを結成しており、当時まだ無名の椎名林檎とも交友があった。アヒト・イナザワ(dr)も別のバンドを行っていたが、バンド解散を機に向井が「ヴェルベット・クラッシュは好き?」と話しかけ、バンドへ誘い込んだという。バンド名の由来としては、向井の宅録時代のユニット名「ナンバーファイブ」と、その後バンドを組もうとしていた者たちが以前やっていたバンド名の「カウガール」からとったといわれている。前者はビートルズの編集盤、後者はニールヤングの曲からの引用である。主催のイベント「チェルシーQ」などでライヴ活動を重ねつつ、1996年には『Atari Shock』、1997年には『omoide in my head』といった自主制作のカセットテープを販売。さらに、パニックスマイルの吉田肇と主宰するインディーズレーベル「headache sounds」にてファーストアルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』を完成させる。

 

 ピクシーズラモーンズ、プリンスなどの影響を受けたフロントマン、向井秀徳の音楽性は単なるギターロックに収まりきらない。室内プールで演奏されているかのようなこもりきった音作りと暑苦しい空気を感じる。艶めかしいベース、泣き叫ぶギターにシャウトの強いボーカル。洋楽をしっかり吸収してうまく邦楽に落とし込んでいるため、ただの真似事には聴こえない。一見ロックとは無縁なガリ弁メガネ男子・向井と、寡黙そうな女性・田淵を筆頭に、(失礼だが)どこか冴えないルックスの連中から発せられる音とはとても思えない。そして、そのギャップが非常にかっこいい。そういった個性が好評だったのか、東芝EMIの社員が作品を購入していたという縁あって、東芝EMIにてデビューを果たす。デビュー前後には、くるりスーパーカー、ブラッドサースティ・ブッチャーズとの共演(特にブッチャーズとは毎秋恒例のツアー、Harakiri Kocorono Tourを1999年よりスタート)を果たし、1999年5月にはメジャーデビューシングル「透明少女」、7月にメジャーファーストアルバム『School Girl Distortional Addict』と立て続けに発売。デビューから3か月でRISING SUN ROCK FESへの出場も果たし、ライヴアルバム『シブヤROCK TRANSFORMED状態』を発売と、今思えば早熟であり、スピーディーなリリースを続けていた。『シブヤROCK TRANSFORMED状態』の衝撃は、ナンバーガールをライヴバンドとして認識させるには十分な力を持っていたと思う。アルコール中毒である向井が、酩酊のあまり途中で適当なボーカルを披露したり、メジャーアルバムには収録されていない「OMOIDE IN MY HEAD」(『SCHOOL GIRL BYE BYE』に収録、headache soundsでの発売後は別レーベルにて再発されている)が収録されていたりと、今でも彼らのマイベストアルバムとしてこの作品を挙げる者は多い。

 

 人気もリリースも好調に伸ばしていき、ここで彼らの歴史の中での重要ポイントが訪れる。それはデイヴ・フリッドマンとの共同作業である。マーキュリー・レヴのメンバーであり、モグワイフレーミング・リップスのプロデューサーとしても知られているデイヴに、通算4枚目のシングル及びセカンドアルバムをプロデュースしてもらうべく渡米し、作業を行っている。そこで完成させたのがシングル「URBAN GUITAR SAYONARA」(2000年5月発売)、アルバム『SAPPUKEI』(同年7月発売)である。ファーストがローファイなギターロックだとしたら、本作以降はダブやファンクに接近している。メロディが掴みやすく、かつ各楽器の音量やテクにメリハリがある。彼らのアルバムの中では一番とっつきやすいのではないだろうか。何よりも「TATTOOあり」の轟音ギターアウトロが素晴らしく、私の中でこのアウトロを越えられる邦楽バンドは未だに現れていない。オリコン順位も24位と、前作よりも18位上がっておりセールス的にも成功している。

 

 その後アルバムリリースに伴うツアーはもちろんのこと、サマーソニックロックインジャパンフェスティバル(2000年)、フジロック(2001年)大型フェスの出演を全制覇。シングル「鉄風鋭くなって」の発売を挟んでブッチャーズやBACK DROP BOMBとのツアー、ワンマンツアーと、怒涛のツアーでバンドのポテンシャルを高めていく。続くアルバム『NUM-HEAVYMETALLIC』もデイヴによるプロデュースで、オリコン15位という史上最高のセールスを記録。祭囃子など、ロックに和のテイストを取り入れたアルバムとなっている。先行シングルである「NUM-AMI-DABUTZ」は、念仏を唱えるようなラップっぽいリリックと、ベースのリフ以外好き勝手暴れまわっている不規則なサウンドが衝撃的だった。後に向井が結成するバンド・ZAZENBOYSの原型である。

 

 4枚目でセールス・サウンド共により進化した彼らは明らかに好調であったと思う。しかし全国ツアー後の2002年9月、突然の解散発表を行う。ベースの中尾がバンドの脱退を希望したが、「ナンバーガールはこの4人なしでは成り立たない」と向井は判断し、解散という流れになったのだ。当初予定していたツアー「NUM-無常の旅」を通常通り決行し、ファイナルである札幌PENNY LANEのライブをもって解散した。

 

 ナンバーガールが残した余波は、現在の音楽シーンに着実に受け継がれている。解散から約3年が経った2005年3月、ベストアルバムとして本作『OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST & B-SIDES〜』が発売された。レコード店店頭に置かれたフライヤーには、ASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文POLYSICSのハヤシ、クラムボンのミト、今は亡きブッチャーズの吉村秀樹フジファブリック志村正彦といった面子がコメントを載せている。ナンバーガールとシーンを共にした者/していない者にかかわらず、その影響力は大きかったことを確認できる。さて本作は、インディー時代のアルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』からの名曲「IGGY POP FANCLUB」、レアシングル「DRUNKEN HEATED」やライヴ音源の「OMOIDE IN MY HEAD」など、スタジオ音源とライヴ音源を入り混ぜた構成だ。スタジオ音源を知らないままライヴ音源を聴かせるなんて…と、ベストアルバムとしては少々とっつきにくい印象を受けるかもしれないが、ライヴバンドであるナンバーガールの熱量を伝えるには良い手法であると思う。実際に、ライヴ音源もスタジオ音源も伝わってくる臨場感に大きな差はないのだ。また、このベストアルバムをOMOIDE IN MY HEADシリーズと題し、同年5月にはライヴ盤『OMOIDE IN MY HEAD 2 記録シリーズ』が2枚同時発売、9月にはライヴDVD『OMOIDE IN MY HEAD 3 記録映像』、12月にはレア音源集『OMOIDE IN MY HEAD 4 珍NG & RARE TRACKS』が発売されている。

 

 そして現代、2014年。解散から12年、ベストアルバム発売から8年が経過している。あの時ゴッチが紹介していなければ、さらに夢中になってナンバーガールを聴かなければ今の自分は存在しないであろうし、音楽ライターなんてやってなかっただろう。ナンバガのメンバーも相変わらず音楽活動を続けていて、向井はZAZENBOYS、アヒトVOLA&THE ORIENTAL MACHINE、田淵はブッチャーズ、中尾はyounGSoundsでの活動や快速東京のプロデュースなどをしている。向井の持つスタジオ「マツリスタジオ」にて取材も行ったし、フェスのレポで舞台裏の彼らにもができて、同じ時を生きているだけで嬉しいのに、私はずいぶん幸せ者だと思っている。

 

 一方、音楽シーンにおいても嬉しい動きは続いている。スパルタローカルズフジファブリックBaseBallBearらは彼らのフォロワーであること(あったこと)を公言しているし、9mm Parabellum Bullet がデビューしたときのキャッチコピーは「ナンバーガールを越えた」であった。Ceroの高城晶平が初めて制作した楽曲はナンバーガール直系のサウンドだったり、the SALOVERSは昨年のライヴで「鉄風鋭くなって」をカヴァーしていたりと、まだまだ影響の強さを感じている。ナンバーガールの遺伝子は、ナンバーガール以降のバンドたちにしっかりと刻み込まれているのだ。

 

 だからきっと、バンドとの出会いがリアルタイム/非リアルタイムかどうかは関係ない。どんな若いリスナーにも彼らにたどり着くきっかけが与えられているのだから。それでもやっぱり、ライヴはリアルタイムでしか見られないのだから残念だ。だから私は悔やんでいる。ああ、もっと早く知りたかったなと。これほど人生を変えるきっかけとなったバンドに、一生後悔しながら生きていきたい。いつか再会を夢見て、乾杯。