音小屋・音楽ジャーナリストコース(小野島講座)

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Mogwai『Hardcore Will Never Die, But You Will』

音小屋第6期音楽ジャーナリストコース 最終課題「生涯のベスト・アルバムのライナー・ノートを書く」

 

Mogwai『Hardcore Will Never Die, But You Will』

文・黒田隆太朗

 

 1997年イギリス。この年デーモン・アルバーンは、USオルタナティブに接近した『ブラー』の発売とともに、「ブリットポップは死んだ」と発言。一方ライバル(に囃し立てられた)だったオアシスは『ビー・ヒア・ナウ』を発表したが酷評を受けることになり、ブリットポップブームは終焉を迎えた。またこの年レディオヘッドは『OKコンピューター』で多くのメディアで喝采を集め、ケミカル・ブラザーズは『ディグ・ユア・オウン・ホール』でテクノとロックを華麗に融合。そんな1997年の喧騒のUKシーンに、グラスゴーから登場したモグワイはデビューフルアルバムの『モグワイ・ヤング・チーム』で、ポストロックの先端を切り開いてみせた。

 

 「真摯なギターミュージックの創作」を目指し結成されたバンドがそこで見せたものは、重厚なギターサウンドのインストゥルメンタル。そしてノイズギターを手繰り、「静」と「動」を不断に行き来する整合性のとれたダイナミズムだった。デビュー当時「ブラーはクソ」と書かれたTシャツを配る姿は(かなりやんちゃなガキにも思えるが)、それまでの潮流にないものを生み出そうという気概が見えるし、ノイズが鳴り響くその音からは、世界中にそのDNAを撒き散らして沈黙に入ったマイブラから影響も見える。そう彼らは間違いなく時代と共振していた。そしてその「静寂から轟音」という構成は彼らの代名詞となるとともに、その後のポストロックの一つの雛形となった。このとき、メンバーは全員まだ10代である。

 

 彼らはスコットランドグラスゴー出身で結成は1995年。デビュー後に1人加入し現行メンバーになり、98年から現在までメンバーは以下の5人である。

 

スチュアート・ブレイスウェイト Stuart Braithwaite (ギター)

ジョン・カミングス John Cummings (ギター)

バリー・バーンズ Barry Burns (ギター、フルート、キーボードなど)

ドミニク・アイチソン Dominic Aitchison (ベース)

マーティン・ブロック Martin Bulloch (ドラム)

 

 それにしてもこのグラスゴーという街の魅力ときたら。昨年だけでもフランツ・フェルディナンド、トラヴィス、プライマルスクリーム、フラテリスと、この街を代表する豪傑たちが活発にリリース。またチャーチズというエレポップの新星を輩出し、16年ぶりにパステルズが新作を発表というニュースも飛び出した。ティーンエイジ・ファンクラブベル・アンド・セバスチャンらも生み出したこの街は、私のような「マニア」たちにはメッカさながらの聖地となっている。彼らが優れた音楽を生み出す背景には、グラスゴー特有の空気が関係しているんじゃないかと、くだらない妄想をしているファンは恐らく私だけではないだろう。

 

 少し脱線してしまった話をモグワイに戻すが、まず彼らの最も優れた点はその創作意欲、すなわち音楽活動における驚異的なスタミナにあると断言しておく。彼らは97年に上述の通りファーストアルバムを発表。それから2014年現在に至るまで、8枚のスタジオアルバムほか多くのEPやサントラを発表。その間目立った活動休止などは一切なく、当然ライブ活動も行いライブDVDもリリース。全くもって、驚愕のバイタリティーである。

 

 これは実際偉大なことで、例えばマイブラの『ラブレス』の価値を極限まで高めたのは、その長きに渡る不在が一つの要因であると考えるからだ。その1枚を後続のシューゲイザーバンドがお手本とする「教典」から、永遠の影響を与える「聖典」に押し上げたのは、彼らが1度そこで消息を途絶えたからに他ならない。音楽界に関わらず「引退」や「死」が伝説を生み出し、その価値や存在を不動のものにすることは珍しくない (マイブラは引退も死んでもいないけど)。逆に「90年代のビートルズ」とまで言われたオアシスが、今では初期の楽曲ばかりが絶賛されるように、名盤を生み出した後の活動の方が遥かに難しいのも明白である。人間は簡単に飽きていく生き物であるがゆえに、「終わらない」ものは「終わる」ものには勝てないのである。

 

 しかしだからこそ私は、その創作活動の足を止める気配すら全く見せないモグワイを、心から尊敬する。実際彼らの音楽をマンネリと揶揄するものはいるはいるが、その一方で多くの模倣バンドたちとは彼らが一線を画しているのもまた事実である。孤高のキャリアの中で、モグワイだけがモグワイを更新し続けている。時流など歯牙にもかけないし、そもそも音楽を作る上で「言葉」を手繰るという行為をしない彼らに、言葉による雑音などあるはずもない。周囲の猥雑な言葉など意にかえさず、黙々とこなすその職人気質に私は何よりも惚れているのだ。

 

 かなり前置きが長くなってしまったが、ここからは本稿の『ハードコア・ウィル・ネバー・ダイ、バット・ユー・ウィル』についての話に移ろう。まず「アル中は死なない、けどお前は死ぬ」というタイトルに目を引かれるが、これは全く気にしなくていい。いかにも意味ありげなタイトルをつけて、その実何の意味も無いのはこのバンドのお家芸。そう「静寂から轟音」というのがこのバンドの伝家の宝刀だとしたら、人を喰ったような意味深タイトルはこのバンドのお家芸である。それは今作の最後の曲“You’re Lionel Ritchie(あんたライオネル・リッチーじゃん)”にも言えるし、前作の『ザ・ホーク・イズ・ハウリング』に至っては“I’m Jim Morrison, I’m Dead(俺はジム・モリソン。俺は死んだ。)” などというタイトルの曲から始まるくらいだ(どちらも楽曲に関連するような意味は無い)。これらの茶目っ気とストイックな音楽性とのコントラストが面白い。

 

 そして『モグワイ・ヤング・チーム』で組んだポール・サヴェージをプロデューサーに迎えてレコーディングされた、彼らにとって7枚目のスタジオアルバムである2011年発表の今作。ファーストアルバムを手掛けた旧友との久々のタッグと聞けば、原点回帰を志向するのかとも考えられが、そこは他ならぬモグワイだった。これぞモグワイという曲がある一方で、M-2の“Mexican Grand Prix”やM-7の“George Square Thatcher Death Party”は、ノイ!やスーサイドを彷彿とさせる、80年代風のエレクトロなニュアンスが強く出たものになっている。うん、こういう80’sのプラスティックな音のモグワイもありだな。なおヴォコーダーを通した声が入る曲もあり、その意味で今作はコンセプチュアルなものではなく、出来ることを全部詰め込んだ、多少ふり幅のついた作品だと言えるだろう。

 

 ちなみに今年の1月に発売された、8thアルバム『レイヴ・テープス』でもポール・サヴェージがプロデュースを担当。この作品ではさらにシンセサイザーの音が強調されるものとなったため、本稿『ハードコア・ウィル~』で垣間見せたものが最新作の布石にもなっている。

 

 だが本作で全く新しい方向へ舵を切ったかと言われればそうではない。むしろ本作で聴けるのは、静かに脈打つ静寂と激しくうねりを上げる轟音がカタルシスを生む、紛うことないモグワイ節である。新たな要素が入っても地に足ついているため、中心の核はぶれない。新譜が出るたびにモグワイフリークが狂喜乱舞する所以もここにある。M-5の“San Pedro”では終始ギター同士が火花を散らし、螺旋状に舞い上がっていく。M-8の“How To Be A Werewolf”では窓を開け放したような解放感と暖かな日差しを思わせ、曲が進むにつれて重なり出すギターも踊っているかなりポップな曲。それが終わると不穏な静けさから始まり、サビではダークなバンドアンサンブルを聴かせるM-9“Too Raging To Cheers”に突入。そしてそこから再び深いところに潜り込むような終曲の“You're Lionel Richie”。中盤重苦しいドラムとギターノイズとともに急上昇する前の音が止む瞬間は、ジェットコースターの急降下の直前のようなゾクゾクしたスリルがある。その後のクライマックスのループする轟音には息を呑むばかりである。美しい。

 

 これはモグワイの「静と動」を行き来する音楽を聴いていると思い浮かべてしまう想念なのだが、生と死、はたまた破壊と創造などそんな大きな2極を感じてしまう。そして人間の理性と本能の相克を見るかのような気分にさせられる。自らが奏でた静寂を突き破り、怒涛のアンサンブルを聴かせるという点では、「破壊と創造」を見てしまうのはあながち間違いではないだろう。それにつけてもインストミュージックの素晴らしさはここにあるのだろう。「言葉」の力というのは凄まじいもので、同じ曲でも人が歌詞を歌ってしまったらそれはラブソングにも、プロテストソングにも、はたまたパーティーソングにもなってしまう。だが言葉がないことで聴き手は自由にそのイマジネーションを発揮できる。言葉というディレクションが無いから、聴き手は受け取り方が自由なのだ。つまり聴き手は真の自由を獲得できるのである。彼らの何も語らない、そして曲のタイトルさえも何も意味しないという楽曲は、それゆえいつ聴いても楽しめる。

 

そしてウィキペディアにある彼らのページのジャンルを見てみると、現在大抵のバンドが多くのジャンル名を羅列されてるのと違い、このバンドは「ポストロック」としか記されていない。そうただそれだけなのである。このバンドは「真摯なギターミュージックの創作」という、たった一つの信念を愚直に貫いているのである。そんなギターミュージックに生涯を懸けた男たちの今後の活動に、期待で胸が膨らむばかりである。まじで一生ついて行きます。

 

黒田隆太朗